ぼんさんのひとりごと
bonsan no hitorigoto第154話(老苦、病苦、で目覚めたこと)
長嶋茂雄さんが還暦を迎えた時「初めての体験ですので何と言っていいか分かりません」
とコメントしたとか?老苦、病苦も初めての体験で心配ばかりが先行して心定かではありません。
理屈で分かっていても、当事者になって初めて、その実態を知るのです。
若いということ、健康であるということ、無くして初めて、その有難さを知るのです。
そして、同じ苦しみにあっている人々の現状を理解できるのです。
この二年間肝臓癌の治療,四度、胃の静脈瘤の治療を行い、多くの医療関係者の献身的な
努力により、元気に仕事ができる体に戻してくれました。 続きを読む »
第153話(奇数のぞろ目を縁起良いとする中国)日本に伝わる。
1月1日(元旦) 3月3日(ひな祭り) 5月5日(端午の節句)こどもの日 7月7日(七夕まつり)
9月9日(重陽の日) 11月11日(独身の日)これは最近決めたようだ。日本では(介護の日)
日本では4,9、を嫌う、4は死を連想するから・・・・ 9は苦しみ、苦労を連想するから・・・
面白い話がある12月29日は餅をつかない。どうしてかと言えば、二重苦を思い起こすからと・・・
無着成恭和尚は12月29日に餅をついていました、村人が寄ってきて、和尚さん今日は餅ついたらいかん
と皆が口々に諫めようとしました、すると和尚曰く「今日が一番ええ日なんですよ、福がつくと数字が示してる。」
野球の選手の背番号いろいろ拘りますね。日本ではやはり4、9の人はいません、外国人の選手は42、44、49を
欲しがります。
自動車のナンバーも末尾は42(死に)、49(敷く、死苦)は欠番になっていました。
病院の病室番号も4は飛ばします。
ある葬儀社の電話番号が4242か4444だったりします。
四国霊場44番札所大宝寺は死、死ではなく四が重なっているので、幸せと言っています。
東南アジアでは一桁で一番大きい数字として尊びます。中国の重陽の日がそうです。
日本のお正月のようにお祝いをします。労働者は故郷に帰省します。
自動車のナンバーが希望する数字になりました、7777、8888、3333、1111、とかの
ナンバーを欲しがるのは、勝負師が多いようです。
日本で好かれる数字は8です。漢字の八が末広がりになっているからです。
ある和尚さんが自動車ナンバーを4949に希望したらすぐもらえたと喜んでいました。
以前から49は欠番にした数字です。なぜかと聞いてみました、アマチュア無線の資格があり
ハロー シイキュウ シイキュウと呼びかけるからと・・・・・・
第149話 (長谷寺団参・65名ー33番札所竹生島・宝厳寺参拝)
平成30年4月30日午後8時20分松前町を出発して一路
本山長谷寺団参にバス2台で65名元気に東予港から大阪南港に!!!
翌日5月1日は夏日の暑さで楽しみにしていました牡丹は盛りを過ぎ
大半が崩れかけていました。
それでも本尊様の御足に触れ健康を祈願しました。
実物大の観音様のお軸も拝見できました。
団参回数表彰20回・1名 10回・4名 5回5名
お茶の接待を受け、ご法話を拝聴できました。
午後は近江の豪商のお屋敷を見学して、楽しみの夕食宴会場の
長浜のロイヤルホテルへ到着しました。
温泉に入り、美食をお腹一杯にして、カラオケで盛り上がりました。
「いくたびも詣る心は初瀬寺山も誓いも深き谷川」のご詠歌のように 毎年お詣りをして新たな御陰を頂いております。
第148話 再入院(毎春入院とは・・・・)
今年も4月9日松山赤十字病院に入院しました。肝臓癌の再発です。
ラジオ波治療で今年は13日で退院できました。(昨年は19日)
沢山読書ができました。「釈迦はなぜ子を捨てたのか」山折哲雄著、
「選ぶ力」五木寛之著、「国を蹴った男」伊東潤著、「運命の人」1,2,3,4
山崎豊子著、「等伯」1,2安部龍太郎著を読み切りました。
これは病気により高齢になった私への休息日だったのかと、ある面で感謝している。
体重も3㎏減り体調も快適です。これで5月1日の長谷寺お詣りの団参に行けそうです。
第146話 坊さん奮闘記
坊さん奮闘記
少 年 期
戦況慌ただしい昭和14年6月19日、真言宗の教深寺に4人目の子が誕生しました。姉(和嘉子)・兄(真彦)・姉(加壽子)・私(夏生)腕白な少年としてすくすくと成長しました4歳の時のことをありありと覚えています。
昭和18年重信川が決壊しました。徳丸の北岸でした。中川原、大間は被害甚大でした。西瓜、牛までが流されてきました、床上浸水でした。
この年同居していた父方の祖母が亡くなりました。厳しい中にも優しい祖母でした。
終戦の一日前に妹が4歳で伝染病の赤痢で亡くなりました。昭和17年6月10日生まれで登紀子と呼んでいました。
昭和21年4月岡田小学校に入学しました。この年弟が生まれました、隆章と言います。南海地震が12月21日未明襲いました。
毎晩余震に怯えた記憶があります。
小学校、中学校時代はよく遊びました、勉強はまあまあ成績の良い方でした。
スポーツも何でもやりました。
父が俳句をやりますので吟行に連れて行ってくれました。俳句の心得はその時身に付いたのでしょう。俳号を「夏泉」と申しました。
特記すべきは中学校2年生の時の学芸会で自らが演出し主役も兼ねて「一茶と千六」を演じたこと、拍手喝采でした。また「若鮎」新聞を発行して(ガリ刷り)1部10円で販売したこと。
不足分は福島先生が補ってくれました。
青少年非行防止の弁論大会にも出ました、個性の強い青年でした。
経済的に苦しい家庭事情もあり大学は諦め、高校は松山工業高校の電気課を選択し、
勉強はほどほどで、2年生の時生徒会長を二期務め、3年生を送る歓送の辞を読みました。予餞会では柳亭痴楽の「青春日記」をやり受けました、父に将来落語の世界へ行きたいと言いましたら、叱られて諦めました。
青 年 期
大阪の早川電機工業(株)後のシャープ電機に入社してテレビの製造、修理、企画等々会社の短歌会「早春」に入部しその世話役として活躍す、
また裏千家の茶道部にも入部して多くの友人をつくる、桂離宮、修学院離宮の見学予約を宮内庁に申請してやっと日時が決まる、茶道部のそれぞれが休暇をとって楽しく戻りましたら、部活動を逸脱した行動と、人事課長に叱責を頂戴する。
工場長(常務取締役)と言い争い寮に帰ると同僚が段ポール箱を持ってきて荷造りしてやると言う、どうしてかと聞くと、工場長と喧嘩したら、
明日は人事部長に呼ばれて左遷やなあと・・・翌日なんのお咎めもありませんでした。
私の青春はシャープ電機時代に有りました。 続きを読む »
第145話 若い僧侶に望むこと
江戸時代寺院は幕府から手厚い保護を受けました。檀家制度もそのひとつです。
明治になって檀家制度は消滅しました。ただ長年の付き合いで菩提寺として150年
経った今でも従来の檀家が寺を支えてくれたのです。
今は信教の自由が憲法で保障されています、政教分離、宗教法人は公益法人として、
無税扱い、一般の法人より優遇されています。
若い住職は高学歴で今更申し上げることもないでしょうが、厳しい社会環境の中、
一般の人らは、リストラに遭い、恐々としています。
それに引き換え、住職になれば、二重三重にも保護され、滅多なことでもしない限り
首になることはありません。
自分を切磋琢磨することもなく僧侶の僧階の昇進をことさらに、欲しがったり、
檀家、信者に対し仏教を教えてやろう、そんな態度が伺えます。 続きを読む »