ぼんさんのひとりごと

bonsan no hitorigoto

ぼんさんのひとりごと

第144話 資格って何でしょう!!

 

最近社会を騒がせている、日産自動車リコール問題、

新車の検査不備が常態化していたことが明らかになった。

正規に登録された資格のある者でなく、補助検査員が検査して

出荷していたとのこと。

安全を重視しなければならぬ、自動車の検査は厳格でなければなりません。

医者の無資格者が手術した例もありました、学校の先生が無資格で

問題になった例もありました。

世間ではあまり問題にしませんが、坊さん(僧侶)にも資格があります。

ところが最近名刹の大寺が(資格のある者)住職一人でほとんどの法務、檀務を

修行中の弟子に任せています。

なぜかと調べてみれば、僧侶の資格のある者には給料を支払わねばなりません。

弟子ならお小遣い程度で済みます。

だから弟子には資格を何時までも取らさず、職員扱いで対処しています。

資格ある僧侶が手伝いに来たら時給900円ですと言ったとか?

この和尚を世間では立派な人と思っています。大きなお寺の住職だから・・・

直接生命に関係ないかもしれませんが、人心を弄ぶことも、

また、詐欺まがいのことも、僧侶と言う立場で簡単にできるのです。

心の悩みや苦しみから救ってあげられる、資格ある僧侶は大切です。

小さな当寺でも三人の資格ある僧侶がいます。

 

 

第143話 お坊さんカフェ開催

月心法事会館で6月16日(金)友引

お坊さんカフェが開催されました、近隣のお坊さん(僧侶)

各宗派よりお招きいただき、8名、一般の参加者20名、

それぞれのテーブルに分かれて円座になり、日ごろこんなこと

あんなこと、聞きたいなと思っていることを質問するのです。

コーヒーとケーキ、お茶を接待しながら、約2時間あっという間に

散会の時間になりました。

私のテーブルには70代のご婦人が4名、終戦直後の苦しかった

話など、仏事と関係のない、たわいない話に笑いあり、懐かしさあり、

結局老人の語り合いの場になりました。

それでもこういう会を企画してくれた、月心のスタッフの皆さんに

感謝の気持ちでいっぱいです。

第142話 臨床仏教師として 森脇宥海師活躍

平成29年6月8日付け・愛媛新聞に

「患者の思い静かに共有」県内初「臨床仏教師」森脇宥海さん(松山)

と大きく掲載報道されました。

森脇宥海師は松山市・真言宗の浄明院の副住職です。

住職の森脇宥暢師も立派な人ですが、副住職の宥海師は

若いのに今の寺院や、僧侶の在り方にいささかの

疑問を持っていました、私の知る若い僧侶の中でこの人は

有望な一人でした。

将来の仏教界を変革してくれる人材でありましょう。

臨床仏教師とは終末期医療などで心のケアに取り組む仕事です。

仏教の精神に基づき、人生の最終段階などにある人々の孤独や悲嘆、恐怖

を受け止め、心のケアを行う。

息子のような宥海さんと話していますと、不思議と安心するのです。

本来持っている、僧侶の血統でしょうか、今大師のような親しみと

引き込まれるような人間味が感ぜられ、今後の活躍を期待するとともに

陰ながら応援を惜しみません。

 

第141話 肝臓癌で入院治療

4月10日(月)松山赤十字病院に入院す。 精密検査の結果、肝臓に二か所癌が確認された。 まだ初期の段階であったので手術はせずに、 ラジオ波治療により焼灼することにした。 治療は上手くゆき、4月28日には退院する事が出来た。 その間、周りの人らに迷惑をかけた、息子夫婦にはいろいろ

面倒をかけた、寺の葬儀、法事は若い住職と副住職で対処してくれた。

大間の区長の責務が4月新年度で他方面より会の出席、報告、計画書の提出、宅地境界の立ち合い、浄化槽の証明等々、

毎日病院での応対になった、副区長等の協力もあり、何とか急場を凌げた。

私も今年七十八歳になる、後進に仕事を任せよとの、計らいであろうか?

「空気」の抜けた風船のような自分の老いを味わった。

いよいよ終末の準備にかかる日がやって来た。

第140話 ある宗派の葬儀に行って驚いたこと

仏教では「死」を穢れと受け止めることはありませんので

清め塩は使いません。私たちは「清め塩」「出棺の際に茶碗を割る」

など亡き人を卑しめる習慣を行いません。 〇〇〇〇    住職

 

葬儀の時会葬の御礼状にこのような文面がありました。

真言宗の私としましては、なんと うわべだけの解釈で、こともまことしやかに、

昔から大事にして来た行いを止めてしまうのでしょうか?

「清め塩」確かに死者は穢れではありません、仏になられた清らかな存在です。

これは昔、野辺で荼毘に付して別れを惜しむ遺族が亡き人の灰を自分に振りかけて、

死者の徳を頂こうとした行為の変形したものです。白い灰に似た塩を使うように

なったのです。

確かに「清め塩」と書きますと誤解を招きます。

字や言葉尻を捉えて云々とは、短絡的と言うべきです。

どうしても「清め塩」に拘るのでしたら、会葬に来た人が穢れているのですから、

葬儀会場に入る前、自分に振りかけてからご入場してくださいと言えばいいのでは・・・・

 

また出棺の時「茶碗を割る」行為は日本の古来から伝わっている、この世とあの世

はすべて、あべこべだとする考えがあったのです、死に装束の白衣は左前に着せますでしょう、

「埴輪」が一部分欠けているのも、通夜葬式をするのもこの世が暗い夜になると

あの世は明るい朝になるからと言う優しさからきた行為だったのです。

だから茶碗は割らなければいけないのです。あの世で困らないように。

この宗派はもう少しなぜこの習慣が長年続いているのか、多方面より掘り下げて

調べ結論を出してほしかったです。

すべて死者への優しさ、恩返しに帰着するものです。

私はこの習慣を守り続けてゆきます。

 

 

 

1 / 11