教深寺和尚の面白教室
教深寺住職 石黒 夏生
仏の心を石に刻む
昭和59年弘法大師1150年の御遠忌記念の年石像を桜井の石彫家馬越正八師に修行大師像
(5尺)および慈母観音像(6尺)の制作を依頼に行き何度も足を運ぶうち小さな作業場に置かれていた童子像、童女像を見て、その可愛さに魅せられ「私にもこういう彫刻が出来るでしょうか」
「仏像を彫られるのはお坊さんの本来の布教活動の一環で結構なことですよ。この鑿と槌を差し上げますから、やってみたらどうですか。」と言って簡単に手解きをしてくれました。石としては
少し柔らかめの凝灰岩、砂岩、安山岩を東京や香川県、島根県の石屋さんに送ってもらいコツコツと彫り始めました。最初は6寸仏お地蔵さんを彫り檀家の人に差し上げました。1尺ほどの童子
童女の像を彫り始めました。3尺の観音像を泉の泉永寺へ差し上げました。
どこで調べたのか朝日新聞関西版に紙面半分の記事にしてくれました。産経新聞、愛媛新聞にも
取り上げられ一躍、石仏和尚として有名になりました。
300体くらいを作ったころ、大阪読売テレビが朝の番組「宗教の時間」に放映したいと
(6時30分から15分間)教深寺へカメラマン他4名のスタッフが平成2年の1月下旬4日間
あちこち私が差し上げた石仏の安置されている、お寺や檀家の家へ撮影に行きました。
放映は2月12日早朝の6時30分大阪は読売テレビ、東京は日本テレビで放映されました。
テレビの影響は驚くほどで各地から石仏の欲しいと言う人から電話や手紙が来ました。
地元のテレビは放映しなかったので地元の人はこのことを知りません、ビデオテープを読売テレビより貰い、今はDVDにして保管しています。今までに450体は制作しました。
教深寺本堂再建
平成4年に発願し8年に完成。丁度平成4年は真言宗中興の祖興教大師の850年御遠忌の年でした。建築委員会を立ち上げ、22名の委員さんが決まりました。総工費6000万円、檀家数約200軒一軒当たり30万円の寄付で5年後に完成と言うことで勧進を進めました。
設計は玉井俊二設計事務所(松山工業高校)私の先輩。建築は東古泉の池内組にお願いしました。製材は大間の郷田真さんに、仏具は松雲堂に・・・・・
平成7年1月18日に古い本堂(享保10年建立)間口2間、奥行き3間の内陣のみの本堂でした。屋根は寄棟造で瓦は本葺き、東向き・・・・総代さんらと住職とで撥遣法要を執り行い、取り壊し工事は半日で終わりました。洪水もあり地震もありの273年も崩壊せずに良く頑張ってくれました。その歴史を思うに感慨深いものがありました。あるお寺は昭和4年建立の本堂が再建をせねばならない安普請でしたが
丁度前日1月17日早朝、淡路神戸の大震災があり記憶に残る日となりました。
当初、6000万円では本堂のみの建築費でした、仏具や落慶法要費等は予定が立っていませんでした。木材も内陣の丸柱1尺、2本は欅、そのたの7寸柱高知の檜22本は小節ありでしたが、郷田さんの計らいで高知の無節で調達してくれました。
本瓦葺きを再三お願いしましたが「本葺きは良いのは解っていますが誰が金出すんですか」
今決めておかないと基礎工事が済んでからでは変更ができません、とうとう委員さんも了解をしてくれ、雄姿を誇る屋根になりました。御寄付も徐々に増え最終結果は1億2000万円に
なりました。「やっぱり本葺きはええなあ」一番反対したのはあなたでしょうが
棟上げ式には糯米5俵分 不思議なご縁で松山の管能米屋さんが糯米5俵寄付してくれました。
天井は碁天井に絵を描いたらと言う事になり、松山の日本画の末光先生に頼みに行きました。
3尺×3尺の碁天井板に薬草を描くように頼みました。66枚改めて寄付を一枚5万円でお願いしました。{本尊さんが薬師如来なので}建築費の御寄付の後なので難しいのではと思っていましたが、あっという間に締め切りました。こぼれた人には襖絵の御寄付をお願いしました。1口3万円で。これもすぐ締め切りになりました。本堂を5間半×5間半の外陣も内に取り込みました。
お陰で今は毎日曜日には法事をお寺でする家が増えました。
本堂海老そり虹梁、蟇股、手挟み、木鼻はできましたが、両袖の欄間、内陣虹梁、4隅の木鼻の彫刻は未完成のまま落慶を迎えました。全部が完成するのに10年かかりました。彫刻だけで
約950万円伊予市の大塚由紀夫さんの作です。
落慶法要は翌年平成9年3月30日(日){4月1日より消費税が3%から5%のなる}
天気予報は雨・・・・寺院方への案内に晴天にて式典を執行しますと書きましたのに・・
御詠歌連、稚児行列も計画されています。雨では台無しになります。祈ることしばし、朝の4時に晴れてくれました、風はありましたが良い落慶法要が出来ました。僧侶45名檀信徒200名超
1億2000万円寄付が集まったので庫裡も建て直したらと言う意見もありましたが、住職としましては、すべて本尊様の本堂に使ってくださいと、大正12年の庫裡も雨漏りはするし、便所も和式で不便なので水洗便所、屋根の互葺き替え、建具新調等リホームしてもらいました。予算を500万円当ててくれました。
仏像も本尊薬師如来坐像、他7体、傷みがひどく修復に約1000万円、仏像掛け軸10数本
500万円、本寺の石手寺で無理をお願いし700万円借金して支払いをしました。返済に6年かかりました。不思議なことに本堂再建後は檀家の見る目も変わり、一層ご支援を頂くようになりました。お寺の預金も少しずつ出来るようになり、次の庫裡再建の折には檀家へのご負担を少しでも少なくなるようにしたいと、思っています。
僧侶になるにはこんな手続きが必要です
僧侶になるには先ず得度(度牒)を受ける必要があります。その時身元保証人が大事です。
師僧が主にそれにあたります。在家の人は何処かの住職さんの弟子になるのが一番良いでしょう
剃髪して仏門に入ること。出家 加行(けぎょう)修行のこと。灌頂。筆記試験では11科目合格点が必要です。
最短時間で習得するのであれば宗門大学、我々の真言宗豊山派では大正大学、種智院大学に入学すれば資格がもらえます。一般の大学卒業生なら2年編入すればいいのです。
本山長谷寺にある専修学院に2年間入学してもいいのです。
私のように38歳妻子が居る身であれば、筆記試験は宗派の年一回の試験に合格する必要があります。各科目60点以上で合格です。加行(35日)、灌頂は本山もしくは、地方の専門道場で受けなければなりません。私のような途中にわか僧侶は一発勝負で挑戦しなければなりません。
僧階は15段階あります、一番上は大僧正、権大僧正、中僧正、権中僧正、小僧正、権小僧正
大僧都、権大僧都、中僧都、権中僧都、小僧都、権小僧都、大律師、律師、権律師。
宗門大学を卒業した者は中僧都で始まります。後の昇階は年数とお金です。
私は年数も充分ですがお金を払いませんのでいまだに15段階の最下位のままの権律師です。
全国で権律師は少数で絶滅種になりつつあります。兵隊さんなら2等兵のままです
最初は大僧正になりたいなと思い勉強もしましたが、大僧正の人を見てあんな人が大僧正なら
ならんほうがええわい。と思っています。お金で買った僧階など何の役にもなりません。
守銭奴の和尚や詐欺師紛いの和尚にはなりたくありません。
平安時代に始まったといわれている僧階は今は形骸化しています。若い僧侶が肩書を欲しがる
のがおかしくてなりません。戒名の字を間違えるようでは大僧正が笑われます。
教 深 寺 の 昔 と 今
開基、由来につては、諸説があって確定し難い。文亀2年(1502)金蓮寺7末寺の一寺として建立されたと言われています。後石手寺の末寺になっています。
教深寺は名のごとく立派な教育者の出た大間地区にあります、大政金衛門さん(現在の武智純一さん)の先祖。文化年間に自宅を家塾として子弟を教育し、その実績を藩庁より称揚されたと伝えられています。没後25回忌の折弟子らが先生の墓碑を境内に建てました現在も大事にされています。
太田熊衛
明治初年ごろ近接して寺子屋(小松庵)があり、松山潘学明教館出身の太田熊衛さんが指定を教育していたとある。教深寺境内も当初は今の5倍くらい在ったともいわれている、小字名の小松、伽藍として残っている。今の境内地は約500坪、終戦までは寺の農地が約一町歩あり、戦後の農地解放ですべてを手放しました。窮屈になった境内も大間地区の集会所、字の倉庫に使用して駐車場にも困る有様です。大間中心部に湧水の泉があり(今は有明公園)この泉を囲むように家並みが並んでいます。
8月14日15日の火流し、お盆の迎え火、送り火としていまも伝統を守って実施されています。教深寺の施餓鬼会に合わせて8月25日には灯篭流しがしめやかに実施されています。
3月13日には「たまみねまつり」と言って大般若祈祷会が行われ、大般若経を経櫃に入れて
字中をまわります。今から350年ほど前に大間の住人が谷上山から御幸山にお使いに行く白い猪を殺して食ってしまったので、それから不審火があちこちで起こり大間の大半が焼けました。当然お寺も消失しました。それは罰があったのだと庄屋郷田氏が発願して始めたと伝えられています。大般若経典600巻のうち200巻が現存しています。