ぼんさんのひとりごと

第146話 坊さん奮闘記

 

 

 

坊さん奮闘記                                         

少 年 期

戦況慌ただしい昭和14年6月19日、真言宗の教深寺に4人目の子が誕生しました。姉(和嘉子)・兄(真彦)・姉(加壽子)・私(夏生)腕白な少年としてすくすくと成長しました4歳の時のことをありありと覚えています。

昭和18年重信川が決壊しました。徳丸の北岸でした。中川原、大間は被害甚大でした。西瓜、牛までが流されてきました、床上浸水でした。

この年同居していた父方の祖母が亡くなりました。厳しい中にも優しい祖母でした。

終戦の一日前に妹が4歳で伝染病の赤痢で亡くなりました。昭和17年6月10日生まれで登紀子と呼んでいました。

昭和21年4月岡田小学校に入学しました。この年弟が生まれました、隆章と言います。南海地震が12月21日未明襲いました。

毎晩余震に怯えた記憶があります。

小学校、中学校時代はよく遊びました、勉強はまあまあ成績の良い方でした。

スポーツも何でもやりました。

父が俳句をやりますので吟行に連れて行ってくれました。俳句の心得はその時身に付いたのでしょう。俳号を「夏泉」と申しました。

特記すべきは中学校2年生の時の学芸会で自らが演出し主役も兼ねて「一茶と千六」を演じたこと、拍手喝采でした。また「若鮎」新聞を発行して(ガリ刷り)1部10円で販売したこと。

不足分は福島先生が補ってくれました。

青少年非行防止の弁論大会にも出ました、個性の強い青年でした。

経済的に苦しい家庭事情もあり大学は諦め、高校は松山工業高校の電気課を選択し、

勉強はほどほどで、2年生の時生徒会長を二期務め、3年生を送る歓送の辞を読みました。予餞会では柳亭痴楽の「青春日記」をやり受けました、父に将来落語の世界へ行きたいと言いましたら、叱られて諦めました。

青 年 期

大阪の早川電機工業(株)後のシャープ電機に入社してテレビの製造、修理、企画等々会社の短歌会「早春」に入部しその世話役として活躍す、

また裏千家の茶道部にも入部して多くの友人をつくる、桂離宮、修学院離宮の見学予約を宮内庁に申請してやっと日時が決まる、茶道部のそれぞれが休暇をとって楽しく戻りましたら、部活動を逸脱した行動と、人事課長に叱責を頂戴する。

工場長(常務取締役)と言い争い寮に帰ると同僚が段ポール箱を持ってきて荷造りしてやると言う、どうしてかと聞くと、工場長と喧嘩したら、

明日は人事部長に呼ばれて左遷やなあと・・・翌日なんのお咎めもありませんでした。

私の青春はシャープ電機時代に有りました。

 

郷里へ戻る

父も70歳に近づき同居して助けなければと思い、シャープ電機の松山支店に転勤をお願いしました。

シャープ時代の茶道の先生の紹介で三越百貨店の近くの先生に入門しました。そこで今の妻と知り合い結婚することになりました。

父も思ったより元気で私の助けも要らぬようですのでシャープを辞め先輩の建設会社に入社しました、ガソリンスタンド開業するとのことで危険物乙種第四類の試験を受け合格。半年、スタンドマンとしてガソリンの販売、プロパンガスの販売をいたしました。市営住宅の建設、倉庫の建設、の現場監督も致しました。長男が生まれました。

松山市に初めての大型スーパーマーケット「フジ」が出来るので電気技師を募集しており応募しました。初代社長・尾山謙造氏は石黒君は営業マンとしての適性があるな、とのことで、いろいろな部門を担当しました。精肉部の部長を拝命した時には途方にくれました。ベテランの肉職人を指導管理することは不可能でした。社長に懇願して日本ハムの肉職人の養成学校に行かせてもらいました。兵庫県加古川市でした。

優秀な成績で卒業できました、やっとベテランの肉職人の連中と対等に話ができるようになり、対面販売からセルフサービスの販売方式に変革を進める事が出来ました。

社長に信頼され箱根のホテルでの研修には何度も行かせてもらいました。ダイエーニチイ、イトーヨーカドー、ジャスコ(イオン)の連中と共に学びました。

こいつらに負けるものかと頑張りました。

広島、宇和島、と転勤しながら本部の松山市に戻りました。

寺は年老いた両親が守ってくれていました。

昭和51年8月8日母が亡くなりました。お盆が済みほっとした9月4日父が倒れました。私一人が寺に戻りフジに勤めながら父の介護、昼間は近所のご婦人が面倒を看てくれました。

寺の後のことをどうしようか、徳島に居る7歳下の弟に継がそうか、私が継ごうか迷いました、妻と息子は反対でした。

私も得度は受けていましたが、僧侶の資格は取っていません、東京の宗務所での11科目の試験に合格せねばなりません、宗門大学4年間の学力が問われるのです。

何とか合格をし、加行(修行)約一か月勉めなければなりません、三津の儀光寺で

二神瑞巖阿闍梨にお導きを得ました。

最後は灌頂の儀式があります、本山長谷寺で秋に受けました。

11月半ばやっと僧侶の資格を得ました。寝たきりの父の枕辺で報告しました。

父の目に涙が流れていました、12月30日遷化しました。80歳でした。

 

    住職一年生の門出

頼りにしていました総代さんが私と相性が悪く、何事も反対され寺の窮状を訴えても聞き入れてくれません、妻と息子を寺へ来てもらうため6畳の間を二間水洗便所、ユノックスの湯、板間の台所を300万円の金を借金して建て増しをしました。

総代さんにえらく叱られました、寺はあんたの物じゃない、勝手をしてもらっては困ると、途方に暮れて居ましたら、隣の部落の総代さんが力になってくれ何とか事なきを得ました。フジは退職して、嘱託として採用してくれました、給与は半分になりましたが助かりました。

檀家165軒生活するのに充分ではありませんでした。

あちこち借金しながら生活を維持、興居島、久万、重信、松山の寺院に手伝う事はないかと頼み込みました、少しづつ葬儀の脇僧として依頼が来るようになり、檀家に無理をお願いせずに済みました。

檀家の人もこうした私の姿を見てお布施も少しづつ増やしてくれました。

一人息子も地元の大学を卒業させる事が出来ました。

平成4年に発願し本堂の建設を計画し檀家の皆さまにご寄付をお願いしましたところ、

一億二千万円余の浄財が集まり、平成八年に立派な本堂が落慶しました。

   教 深 寺 大 飛 躍

檀家の皆さんや地元大間部落の皆さんに多大のご支援を頂きました、そのお気持ちに報いる為、大間区長など村役を快く引き受け少しですがお返しを心掛けました。

北黒田の宗通寺の住職と檀家総代さんの間で諍いがあり、裁判になり、葬儀、法事の

お手伝いをすることになりました。若干の手数料を頂きました、六年三か月やっと和解しましたが、一部の檀家さんが菩提寺(宗通寺)戻らないということになり、教深寺に入檀したいと申し込みがあり124軒が教深寺の檀家として編入されました。

僧侶も私一人では忙しいので若い住職(岩屋寺の息子さん大西善真さん)儀光寺から菅山瑞裕さんを迎え3人体制で寺を守っていくことにしました。

今檀家430軒になり給与も3人に支払えるようになりました。

息子は寺の難儀を見て育ちましたので後を継ぎませんでした。

愛媛新聞社のカルチャースクールの「写経教室」の講師として生徒18人の指導に当たっています。寺の写経教室にも15名が熱心に般若心経を写経しています。

ご詠歌も10名、月に二回朗々とお唱えしています。

本山の団参も毎年バス二台70名でここ10年続いています。

松前町の史談会のお誘いもあり、郷土の歴史に興味を持つようになり、歴史の愛好家の皆さんと親交を深めています。

昨年4月肝臓癌で20日間入院しましたが、寺は二人の若住職、副住職で檀務をこなしてくれました。11月にも9日間、胃の静脈瘤の治療を受けました、本尊様のお薬師さまが助けてくれました。

体重も5kgほど減量し以前より元気になりました、皆様の支えが力になっています。

高齢になった妻も元気で寺の大黒さんになっています。

今年79歳 夏生和尚の飛躍の年です。