仏教では「死」を穢れと受け止めることはありませんので
清め塩は使いません。私たちは「清め塩」「出棺の際に茶碗を割る」
など亡き人を卑しめる習慣を行いません。 〇〇〇〇 住職
葬儀の時会葬の御礼状にこのような文面がありました。
真言宗の私としましては、なんと うわべだけの解釈で、こともまことしやかに、
昔から大事にして来た行いを止めてしまうのでしょうか?
「清め塩」確かに死者は穢れではありません、仏になられた清らかな存在です。
これは昔、野辺で荼毘に付して別れを惜しむ遺族が亡き人の灰を自分に振りかけて、
死者の徳を頂こうとした行為の変形したものです。白い灰に似た塩を使うように
なったのです。
確かに「清め塩」と書きますと誤解を招きます。
字や言葉尻を捉えて云々とは、短絡的と言うべきです。
どうしても「清め塩」に拘るのでしたら、会葬に来た人が穢れているのですから、
葬儀会場に入る前、自分に振りかけてからご入場してくださいと言えばいいのでは・・・・
また出棺の時「茶碗を割る」行為は日本の古来から伝わっている、この世とあの世
はすべて、あべこべだとする考えがあったのです、死に装束の白衣は左前に着せますでしょう、
「埴輪」が一部分欠けているのも、通夜葬式をするのもこの世が暗い夜になると
あの世は明るい朝になるからと言う優しさからきた行為だったのです。
だから茶碗は割らなければいけないのです。あの世で困らないように。
この宗派はもう少しなぜこの習慣が長年続いているのか、多方面より掘り下げて
調べ結論を出してほしかったです。
すべて死者への優しさ、恩返しに帰着するものです。
私はこの習慣を守り続けてゆきます。