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information大間サロン講演
(大石順教尼さま・手束妙絹尼さま)
大石順教尼様
大石順教は、明治二十一年に大阪の道頓堀に生まれ。本名は「大石よね」と言いました。よねは、11歳で京舞の名取りとなり、13歳の時、大阪堀江で芸妓への道を目指し、「山梅楼」の中川万次郎の養女となります。芸名は妻吉でした。 ところが明治三十八年(1905)六月二十一日、恐ろしい悲劇が起こります。養父の万次郎は、妻が男と駆け落ちした事から酒に溺れて狂乱し、殺傷事件(逃げた妻の母親・弟・妹の他、養女にしていた二人の芸妓も巻き添えにして五人を惨殺した事件)を起こしました。このとき17歳の妻吉(大石順教)も巻き添えを受け、両腕を切断され、顔に切り傷を受けました。「堀江六人切り事件」として日本中を震撼させたこの恐ろしい惨劇により、ただ一人命だけは取り留めましたが、彼女の人生は一変しました。 その後大石よねは、話題の事件の被害者として、身障者である自身の姿を見せ、桂文団治一座に加わり、寄席や高座で小唄や長唄を謡いながら、地方巡業で生計を立て、両親を養う日々が続きます。 三年後のそんな巡業中のある日、鳥かごの中のカナリヤを見て心を打たれます。親鳥が雛に口でえさを運んでいる姿…鳥は手がなくても、一所懸命に生きていることに気づき、口に筆をくわえて文字を書くことを習得したのです。 | 妻吉は芸能界から身をひき、大阪生玉の持明院叡運僧正に古典を習い、明治四十五年(1912) 三月に日本画家の山口艸平と結婚し2児を授かりますが、その後昭和二年(1927)に離婚しています。 妻吉は2児を連れて上京し、東京渋谷に居して帯地に更紗絵を描いて生計を立てていましたが、昭和六年(1931)に大阪の高安に庵を建て尼僧を志し、堀江事件で亡くなった5人の霊を慰め、婦女子の為の収容施設を置き教育に取り組むようになります。昭和八年(1933)には高野山金剛峰寺にて得度、法名順教を授かります。 順教は昭和十一年(1936)に京都市山科の勧修寺に移住し、身障者の相談所「自在会」を設立し、婦女子を収容し、身障者の自立教育につとめていきます。また、堀江事件の犠牲者並びに中川万次郎共々の供養の為、宗教法人仏光院を設立しました。 口を使って描く「般若心経」が昭和三十年(1955)日展に入選しました。その他全国を活動して、昭和三十三年(1962)、日本人として初めて世界身体障害者芸術協会の会員に選ばれました。 こうして身障者の心の母、慈母観音と慕われた大石順教尼は、昭和四十三年(1968)四月、80歳で亡くなるまで身障者の社会復帰に、その生涯を通じて力を注いだのです。 |
手束妙絹尼様
愛媛県北条市にある番外霊場・鎌大師堂の庵主・手束(てづか)妙絹(みょうけん)さんが、満94歳の誕生日の2003年4月30日をもって引退されることになりました。
手束妙絹さんは、1909年(明治42年)生まれ。幼い時期を台湾で育ち、その後、東京や名古屋に暮らし、結婚・出産を経て、終戦後、身一つとなられました。パキスタンの紡績工場などで働いた後、熱海のマンションに移り住み、お茶やお花の先生をしながら、好きなときに温泉につかるという生活をしておられました。たまたま参加した小豆島遍路で四国遍路に興味をもったことから、本四国を歩くことになり、毎年歩き遍路で巡ること15回。そうして1979年(昭和54年)、70歳になろうというとき、縁あって、鎌大師堂の庵主となられたのです。以来、訪れる遍路たちの話を聴き、あるときは共に悲しみ、あるときは諭しながら遍路を見守ってこられました。いわば「現代歩き遍路の大先輩」ともいうべき存在です。
遍路中や、庵主となられてからの様々な人との出会いは、その著書『人生は路上にあり』、『お遍路でめぐりあった人びと』、『堂守日記 花へんろ一番札所から』などに語られています。
鎌大師堂は、53番札所から54番札所に向かう途中にあり、車遍路の人々は、ほとんど国道196号を走り抜けてしまいますが、歩き遍路のかなりの人が、手束妙絹さんにあこがれて、一目会いたいと思い、丘を登って、この鎌大師堂を訪れてきたのです。
手束妙絹尼(1998年8月) |
僕は、これまでの2巡の遍路で、幸いなことに2度とも手束さんとお会いすることができました。1度目は1998年夏、酷暑の区切り打ち1日目で、ちょうど大師堂でお祭りがあった翌日にあたり、お疲れの様子でしたが、「余り物だけど」とサイダーをご馳走になりました。「こんな暑い時期に歩くのは体に毒だよ」と諭されたのを覚えています。2度目は、妻と歩いた2001年12月末。暮れも押し詰まり、地元のお茶やお花のお弟子さんたちが集まっておられる中、貴重なお時間を割いてお茶やお菓子のお接待を頂きました。
手束さんはお遍路さんとの触れ合いを次のように記しています。
「お四国巡りのお遍路さんに『お納経』を書き、身にかなうかぎりのお接待をし、ひとり歩きの行き暮れたお遍路さんには、一宿一飯のお善根をさせていただく。『尼さんになりたい』と泣いて訪ねてくる遠方からの人にも、ただ一緒に泣いてあげるしかできない。そんな私に心足りて、『また来させてください』と涙に洗われてか、少し晴れて帰ってゆく人。 |
私が頂いた著書に記された俳句
「遍路笠 しぐれがさとぞ なりにけり」
「星逢いの 小膝かかへて 尼ひとり」